【日光東照宮】の雑学・豆知識。

誰得雑学

日光東照宮は栃木県の日光市にある神社で、標高はスカイツリーと同じ高さの634メートルとなります。

あの江戸幕府を開いた徳川家康を祀っており、広さは東京ドーム一個分ほどもあります。

なぜ墓ではなく神社なのか

なぜ、徳川家康は墓ではなく神社を建てさせたのでしょうか。それは徳川家康の遺言によるものでした。

1616年、徳川家康は75歳で亡くなりました。そのときにこんな遺言を残していたのです。

「遺体は駿河の久能山に葬り、一周忌を過ぎたら日光山に小堂を建てて、神として祀る(まつる)こと」

これはつまり、徳川家康は日光で神になることを望んだ、ということです。

ではなぜ埋葬は駿河の久能山を希望したのか。それは駿河の久能山という土地が、徳川家康が少年期と晩年を過ごした場所だったからです。

なぜ日光なのか

徳川家康は自身が神になる場所として、日光を選んだことにはいくつかの理由がありました。

まず一つ目は、徳川家康は源頼朝を尊敬していたため、かつて源頼朝が援助をしていた日光を再興しようとしていたのはないか、というものです。

徳川家康は天下統一を成し遂げる際、源氏の末裔を名乗っていたほどに源頼朝を尊敬していました。

そんな徳川家康の想いがあったため、源頼朝とゆかりある日光を選んだともいわれています。


そして日光を選んだもう一つの理由、それは日光の位置と方角でした。

日光は江戸から見て真北に位置しており、江戸から夜空を見た際、北極星が輝く方角にあったのが日光だったのです。

当時、北極星は「宇宙の神」と考えられていたため、徳川家康は日光において宇宙の神である北極星と一体となり江戸を守ろうとしたともいわれています。

日光東照宮は誰が建てたのか

日光東照宮は徳川家康の跡取りであった二代将軍秀忠(ひでただ)により建てられました。ですが、建てられた当時の日光東照宮は現在の姿とはまったくの別物で簡素な造りでした。

簡素な造りだった日光東照宮を、三代将軍家光(いえみつ)が1934年から1936年のおよそ2年間をかけて現在の豪華な姿に改築したのです。

豪華に改築されたおかげで、その優れた建築群、長い歴史が形作った神聖な宗教的空間、現在まで受け継がれている日本独特の信仰の姿などが評価され、1999年にはユネスコの世界遺産にも認定されました。

それではここから日光東照宮の内部に迫ってみましょう。

石鳥居

「石鳥居」の正式な名前は「一の鳥居」ですが、一般的には通称であるこの「石鳥居」という名前で知られています。

「石鳥居」は1618年に九州筑前(福岡県)の藩主、黒田長政によって奉納されました。そして「石鳥居」を構成する15個の巨大な石は、船と陸路ではるばる九州から運ばれたのです。

また、「石鳥居」はこれら巨大な石を積み上げただけで建てられているにも関わらず、これまで地震などによって倒れたことは一度もなく、耐震性にも優れた驚異の建築物としてその名が全国で有名となっています。

五重塔

「五重塔」は1650年に若狭の国(福井県)小浜藩主、酒井忠勝によって奉納されました。

スカイツリー建設の際には、この「五重塔」の「心柱制振」と呼ばれる地震緩和システムが応用されたことが有名な話で、こちらも「石鳥居」と同様に優れた建築物としてその名を全国に轟かせています。

見ざる言わざる聞かざる

「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿(さんえん・さんざる)が彫られている、神厩舎(しんきゅうしゃ)。この有名な三猿は、全部で8面ある猿の彫刻の1面でしかありません。

8面の彫刻には猿が合計で16匹おり、人間の一生を描いたストーリーになっています。


まず初めに子猿と親猿
親が生まれた子供の未来を見つめている光景です。

2つ目は見ざる聞かざる言わざる
何でも興味が沸いて吸収してしまう子供に対して、悪い事は見ない、聞かない、言わない、という意味を描いています。

3つ目は青年期をイメージしたもの
青年がこれから独り立ちをしていく様子が描かれています。

4つ目は子供から大人になったイメージ
若い大人のうちに大きな志を持って苦労すれば、将来立派になれると言う意味を描いています。

5つ目は大人になった猿の挫折と友情
大人になった猿が大きな挫折を知り落ち込んでいる様子で、その横では仲間の猿が慰めてくれている様子が描かれています。

6つ目は
可愛い女の子に恋をして恋愛に悩む男の様子です。

7つ目は結婚
人生のパートナーを見つけて結婚する。
描かれている青い波は人生の荒波を表しており、二人で一緒に力を合わせて波を乗り越えようと言う意味です。

最後の8つ目は出産
母になる事で知る喜び、希望、苦悩などが描かれています。
そしてまた最初の彫刻に戻り、生まれた子供も同じ道を辿るというわけです。


「見ざる、言わざる、聞かざる」だけを見るのではなく、神厩舎(しんきゅうしゃ)を一周まわって鑑賞することが正しい鑑賞方法となるのです。

眠り猫

「眠り猫」は眠っている猫の背面に雀が遊んでいる様子が描かれた彫刻です。

争うはずの猫と雀が一緒にいることから平和の象徴ともいわれています。

灯篭

日光東照宮には灯籠が123個もあり、このうちの120個は諸大名からの奉納品です。諸大名たちが将軍家への忠誠心をアピールするために奉納したといわれています。

なかには珍しい灯篭もあり、伊達政宗が奉納した灯篭は当時では珍しい鉄製の灯篭でした。鉄はポルトガルから輸入したもので、伊達政宗は海外との交流があることを諸大名にアピールする狙いもあったとのことです。ですがもちろん鉄製ということもあり、せっかくアピールするために奉納した灯篭はすぐに錆びてしまいました。

ほかにはオランダから奉納された灯篭もありましたが、なんと灯篭に彫られた徳川家の家紋が逆さまに彫られた状態で奉納されたのです。ですが徳川家はオランダに悪気はないものとし、そのままありがたく受け取ったということです。

柱の模様が逆の意味

日光東照宮には渦巻き模様が彫られた柱がたくさんあるのですが、3本だけ渦巻き模様が逆さまに彫られているものがあります。

当時は「満つれば欠ける」ということわざもあり、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」と考えられていました。つまり、わざと柱を未完成の状態にして災いを避けようとしたのです。

渦巻き模様をわざと逆さまに彫ったことは、言わば魔除けのようなことだったのです。

徳川家康の墓

徳川家康のお墓は日光東照宮の奥社にあり、昭和40年に公開されるまで350年も非公開になっていました。

造られた当初は木製で、その後に石造りに修築されましたが、1683年の日光江戸地震によって日光東照宮も大きな被害を受けることになり、徳川家康の墓石もその際に倒壊してしまいました。そこで五代将軍綱吉が墓石を金、銀、銅の合金からなる唐銅製に造り変え、徳川家康のお墓は現在の姿になりました。

徳川家康の墓石は「宝塔(ほうとう)」という名で、基礎部分が八角形となっていて風水では縁起がよいとされる角数となっています。